序文・浪の下にも都の候ぞ
堀口尚次
平時子〈大治元年 - 元暦2年〉は、平安時代末期に活躍した平清盛の継室。位階は従二位。二位尼(にいのあま)として知られる。下級公家の平時信の女で、母は二条大宮〈令子内親王〉の半物(はしたもの)〈下仕えの女房〉。権大納言・平時忠の同母姉、平滋子〈建春門院〉の異母姉あるいは同母姉、能円の異父姉にもあたる。清盛との間に宗盛・知盛・徳子〈建礼門院〉・重衡らを生む。
第一子の宗盛の誕生年より、久安元年頃、清盛の後妻として迎えられたと推測されている。平治の乱後、二条天皇の乳母となり、永暦元年、八十島典侍の賞により従三位に叙された。時子が二条帝の乳母となり、清盛が乳父となったことは、信西〈藤原の公卿〉の地位の継承の狙いとともに、後白河院と二条帝の対立の中で、二条帝への従属と政治的奉仕の姿勢を示すものと考えられている。二条帝の崩御後、後白河院の寵妃(ちょうき)となった異母妹・滋子とともに清盛と後白河院の政治的提携強化の媒介となり、仁安元年、滋子の生んだ憲仁親王〈後の高倉天皇〉が立太子(りったいし)すると、従二位に叙せられた。仁安3年、清盛とともに出家。清盛が福原へ遷ると西八条第(にしはちじょうてい)を継承し、八条櫛笥亭(くしげてい)と名称を改めている。承安元年、徳子が高倉天皇に入内すると、中宮の母として徳子の出産にかかわったほか、高倉帝の諸皇子女の出生や成長儀式にも深くかかわり、清盛一門と皇室との関係を結ぶ役割も果たした。
清盛による治承三年の政変の後、徳子の生んだ外孫・安徳天皇が即位すると、清盛とともに准三宮(じゅさんぐう)の宣旨を受けた。清盛はその晩年、宗盛を後継者とする意志を強く見せたため、亡き重盛流の小松家は嫡流からはずれ、時子の出自が新たに嫡流となった。
清盛亡き後は、宗盛や建礼門院徳子の母である時子が平家の家長たる存在となり、一門の精神的支柱として重きをなした。壇ノ浦の戦いで一門が源氏軍に最終的な敗北を喫すと、安徳帝に「浪の下にも都の候ぞ」と言い聞かせ、幼帝を抱いて海中に身を投じ自害した。享年60。
なお『吾妻鏡』には、時子は、三種の神器の一つ天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を持ち、安徳帝は按察使局(あぜちのつぼね)〈女官〉が抱いて入水したとあり、按察使局は引き上げられて助かっている。また『愚管抄』には、時子が安徳帝を抱き、さらに天叢雲剣と三種の神器のもう一つである神璽(しんじ)〈八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)〉を具して入水したとある。


